音を字書で調べると、

「聲に節あり、文あるを音という」”大字典”

「聲の外にいでて、節のあるものを音という」”漢和大辞典”

とある。

普通は逆では?とならないだろうか。

それは、唯物に毒された頭だからである。

 

この謎を解くには、

「ナがないと一切がない。」

をしっかり観据えられるか否かにある。

「ナ」がなく何かわかることはあるのだろうか?

無いのである。

音楽・芸術、それは「ナ」から離れるようで、

實はその中に埋没しわからなくなってしまう迷宮の入口といってもよい。

いい音だ、素晴らしい聲だ、いい絵だ、素晴らしい演奏だなんて、

すべて「ナ」の範疇。

本当は、吐き出された附票にすぎない。そこに優劣をつけて一喜一憂して、

大枚をはたいて満足している。漫才である。

優れた芸術家の苦悩はここに集約される。

その苦悩から解き放たれるミチは、自己とは何かを求めるミチと同じ。

 

問い、あなたは誰? 

タロウと答えるがそれは名である。

あなたも「ナ」であるなら、一切がナであるはず。

そして「ナ」がなければ一切がないはず。

宇宙があるから、あなたがあるのではなく、あなたがいるから宇宙はあるのである。

その正體は「ナ」なのである。

 

聲は「ナ」と読む

音は「ナ」とは読まない。

 

始まり父音 終わり母音 

その間を「聲」といい「時」という。

聲を「ナ」と読む

その「ナ」が成り立つために不可欠なものがある。

それが「命」である。ナをつけることを命名という。

 

今、音としているものは聲(ナ)だが、實は命の仕組みを顕わしてもいる。

音を「ネ」と読む。ネは根であり子である。

命とのつながりである。

そして、その命を働かせているもの、それを究極の實能という。