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「昭和20年8月6日」この日から種の絶滅を危惧しなければならなくなったことは、誰の目にも明らかです。しかし、あれから70年以上の時が流れたにもかかわらず、いまだに世界の覇権は核保有国の権力者が握っていることも周知の事実です。

廣島には平和記念公園という公園があり、そこでは毎年8月6日になると、平和記念式典が行われます。その公園の一角に「平和の鐘」なる鐘があることを、皆さんはご存知でしょうか?それは、原爆ドームのちょうど西側、川を挟んで対岸、平和記念公園の北端にあたる場所に設置されています。その鐘のことは知っている方は多いのですが、その鐘に刻まれている文についてはあまり知られていません。

そこには「自己を知れ 森戸辰男」と刻まれています。

さて、なぜ平和の鐘にそのような文が刻まれているのでしょう?

調べてみると、森戸辰男は広島大学の初代学長で文部大臣を務めたような著名な方です。その森戸辰男は「自己を知らなければ、平和になることはない」と述べています。そこで問題なのは「平和」と「自己」とはどういう関係があるのか?ということでしょう。平和に至る道程には自己を知るということが必要ということなのでしょうか?逆に現状を振り返ると、平和であると言い切れるかと言えば、決してそのようなことはないという証拠はたくさんあります。

すると、森戸辰男の説が正しければ、自己とは何かは知られていないということになります。

一方、学問の方ではどうでしょうか?

世界的に権威のある百科事典でブリタニカ百科事典という事典があります。その中に「自我」の項目があり、そこでは「数千年前と同様に謎である。」と締めくくられています。 「自己を知れ」は森戸辰男が初めて述べたのではありません。数千年前、ギリシャにデルフォイの神殿という神殿があり、そこには「汝自身を知れ」というご神託が掲げられていたといわれており、その時代から自己・自我は問われてきており、未だに答えが出されていない難問中の難問なのです。

そして、同じ平和記念公園には、昭和56年にローマ法王ヨハネ・パウロ二世が訪問した時に訴えた「平和アピール」を刻んだ碑があります。そこには次のような文が掲げられています。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは、平和に対して責任を取ることです。」

この文の中で、二つの重要な名が掲げられています。それは、「人間」と「生・命」です。まず、人間について、戦争は人間のしわざになっていますが、同時に生・命の持ち主でもあるとされています。

ところで、人間とは一体何なのでしょうか?この問いも、自己・自我と同様に明確な解答が出されていません。そのよい例として高校の現代社会の教科書の中に、人間とは何かそれは永遠の謎であると明記されています。謎である人間が行った戦争が問題であるとしたならば、平和を求める前に、人間とは何かという問いの答えを出さなければならないはずです。それを問わず、いくら平和を求め、訴えてもそれは徒労です。また、ギリシャ哲学協会のブドゥリス教授は、日本に来られた際に「哲学の中でも、人間とはなにかという問いの答えは出ていない」と述べられました。

もう一つの名「生・命」ですが、なぜ生きて、なぜ生かされているのか?といった問いについては、遺伝子の仕組みが明らかになっても謎であることは周知の事実です。例えば。「生命46億年の謎」といったTV番組や、「命の不思議」といった書籍は、本屋や図書館で探せばいくらでも出てきます。それらの番組や書籍の中に、その答えが書かれているものがあるかと言えば、大抵は謎であると締めくくられているはずです。また「生・命」に携わる医者にしても、なぜ生き死ぬのかを明確に答えることができる方はいないのです。

これら三つの問い「自己・自我」「人間」「生・命」とは何かという問いは、現在存在するすべての問いの根幹となる問いであり、これを中枢命題、すなわち究極の問いと言います。その問いに対する解答は前述のとおり、出されていません。

しかし、この中枢命題の解答、究極の解答がすでに出されていたとしたらどうでしょう?その究極の解答について検証するのが、究極の解答検証会(皆十の会)です。